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​参拝した神社

​一. 桜井神社

​読み方 さくらいじんじゃ

参拝日 令和3年11月8日

鎮座地 福岡県糸島市志摩桜井4227

祭神 与止妃大明神(神直日神大直日神八十枉津日神)、島岡大明神、八所産土大神

島岡大明神…福岡藩主・黒田忠之

八所産土大神…周辺にあった神社の神霊の合祀

社格 旧県社

本殿 流造(外削ぎ、鰹木七本)

​由緒

慶長15年(1610)、嵐の夜に岩戸が開いて神霊が現れたことに由来。寛永9年(1632)に社殿創建。

アクセス

バス停「桜井」から徒歩10分程度

​《部員コメント》

与止妃の名前の由来が気になる。佐賀県の與止日女神社(佐賀県佐賀市)や祭神が似ている警固神社(福岡市)とは何か関係があるのだろうか。(K.R.)

桜井神社

≪部員コメント≫

 宗像大社のある宗像市東郷駅までは博多駅より快速で30分ほど。ビルの建ち並ぶ景色からすっかり田園の風景に様変わりする。しかし宗像大社の鎮座する地としては、遠く山に春霞のかかるような景色こそが一番よく似合う。  宗像大社は日本の神社の中でも最古と言って良いくらいに古い部類の神社である。境内の「高宮斎場」は宗像大社に社殿ができる前から露天の祭祀が行われた場所として伝わっている。古くは「神郡」と呼ばれる経済基盤の所領が置かれ、古代最有力の神社として祭祀を続けてきた。御本殿から続く参道は、そのまま真っ直ぐ海へ続いている。海と山に囲まれた最古の神社。これを感じられるのは、日本の中でも非常に限られた場所のみである。宗像という地が、古代からの原風景のタイムカプセルとなっているようにも感じる。  とかくに、神社を巡るという行為は、時に都市という「生活の利便性」で定義づけられた現代を支配する絶対的な価値観の尺度をも捻じ曲げ、自然に帰することによって不思議と得られる安堵の気持を自覚させうる効果を発揮するのだと感じた。些か飛躍した発想にも思われるかもしれないが、人混みの天神・博多を経由して行くと、自然とそんな気分になるものである。(しょうけ)

​二. 宗像大社辺津宮

​読み方 むなかたたいしゃ へつぐう

​参拝日 令和4年3月4日

鎮座地 福岡県宗像市田島2331

祭神 市杵島姫神(宗像三女神の一柱。天真名井の誓約で生まれた)

社格 旧官幣大社、別表神社

​本殿 両流造(千木:外削ぎ、鰹木:奇数)

由緒

創建年は不明だが、日本書紀によれば、天照大御神と須佐之男命との間で行われた誓約で生まれた宗像三女神が、天照大御神の「歴代の天皇を助け、歴代の天皇より祀られよ」との神勅に基づき宗像の地に降り立ったとされる。律令制の頃から神郡を設けられるなど古代の最有力神社として君臨し、宗像信仰の総本社として祭られ今日に至る。

アクセス

鹿児島本線「東郷駅」からバスで12分ほど。

注目ポイント

「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群」としてユネスコ世界遺産に登録される。沖津宮が置かれる沖ノ島は「海の正倉院」とも称され、沖ノ島より発掘された8万点の国宝が辺津宮に併設される神宝館に収蔵されている。

宗像辺津

​三. 蚕影山神社

​読み方 こかげさんじんじゃ

参拝日 令和4年3月4日

鎮座地 茨城県つくば市神郡1998

祭神 稚産霊、埴山姫、木花開耶姫

社格 旧村社

本殿 流造

由緒

創建年は第13代成務天皇の御代(2世紀ごろ?)。筑波国造によって稚産霊が祀られ、周辺では農業や養蚕業が発展した。明治の産業革命以降は養蚕業の守り神として関東内外でも広く信仰され、大きな賑わいを見せた。今では祭礼時以外は無人の社となり、壮麗な石段と社殿のみが明治期の繁栄を伝える。

アクセス

バス停「大貫」から徒歩30分程度。常磐線「土浦駅」を起点とするりんりんロードを通って、自転車で参拝するのがオススメ。

注目ポイント

天竺(インド)から日本へ渡って来た姫が亡くなり、その遺体から蚕が現れたという「金色姫伝説」や欽明天皇の娘が筑波山で神になったとされる「各谷姫伝説」などが残る。御朱印は筑波山神社で拝受できる。

≪部員コメント≫

紬の一大産地である下総国結城郡からの奉納が非常に目立ち、養蚕家に深く崇敬された神社だということが分かった。

​また遺体から農作物が出現するという点で、金色姫伝説とワカムスビの誕生に関連性を感じた。

常陸には蚕影の名前を冠する神社が他に2社もあるため、どのような関係があるのか気になる。(K.R.)

蚕影山神社

四. 日御碕神社

読み方 ひのみさきじんじゃ

参拝日 令和4年3月13日

鎮座地 島根県出雲市大社町日御碕455

祭神 神の宮…素戔嗚尊 日沉宮…天照大御神

社格 旧国幣小社

本殿 権現造(千木:内外両方 鰹木:奇数)

由緒

創建は神の宮が安寧天皇13年、日沉宮が開花天皇2年。元は神の宮と日沉宮はそれぞれ別の神社だった。 神の宮は『出雲国風土記』に美佐伎社として掲載されている。素戔嗚尊が自身の魂の鎮まるところを定めようと柏の葉を投げ、それが留まったのが旧社地「隠ヶ丘」であった。 日沉宮は『出雲国風土記』に百枝槐社として掲載されている。日御碕神社宮司・小野家の祖である天葺根命が日御碕の経島で天照大御神のご神託を受け、経島に創建した。948年に現在地に遷座された。旧社地の経島にも祠が建てられているが、神職以外は上陸禁止である。 伊勢の神宮が日本の昼を守るのに対し、日御碕神社が日本の夜を守るよう勅命を受けたことから日沉宮と呼ばれるのだそうだ。 現在の社殿は徳川家光の命によって造営されたものである。

アクセス バス停「日御碕」から徒歩1分

注目ポイント

国宝「白糸威鎧 兜・大袖付」所蔵。 神職のみが1年に1度だけ旧社地の経島に渡って行う神幸神事がある。 素戔嗚尊を祀る神の宮は内削ぎの千木に鰹木が5本、天照大御神を祀る日沉宮は外削ぎの千木に鰹木が5本である。社地付近で柏の化石が見つかり、素戔嗚尊が柏の葉を投げたという神話に関連して神紋石として境内に祀られている。

日御碕

≪部員コメント≫

現在の社殿が日光東照宮と同じく権現造であることは、徳川家光の命によって建てられたことが影響しているだろう。以前の社殿がどのような形式だったのか想像したいが、なんと日御碕神社の遷宮はこれまですべて勅命または将軍命によって行われてきたというから出雲の神社の中では天皇家からの影響が大きかった神社かもしれない。 天皇家・将軍家からも崇敬を集めた日御碕神社であるが、島根半島の北西端に位置するため海からやってきた人々も参拝したのだろう。神社正面の鳥居とは別に海に面した場所にも鳥居が設けられており、港に着いた人が上陸すると最初にその鳥居をくぐることになる。さらに大陸から訪れた人々もこの神社を参拝したのだろうか、境内には韓國神社が鎮座していた。 日沉宮旧社地の経島は禁足地であるが、その周辺に神事が行われていたと思われる海底遺跡があるらしい。(ヤマモト)

​五. 美保神社

読み方 みほじんじゃ

参拝日 令和4年3月12日

鎮座 島根県松江市美保関町美保関608

祭神 事代主命、美穂津姫命

社格 旧国幣中社

本殿 美保造(千木:内外両方 鰹木:奇数)

由緒733年の『出雲国風土記』に記述があるからそれ以前の創建である。また、境内地から祭祀に用いられたと思われる出土品が見つかっており、古墳時代には何らかの祭祀が行われていたと考えられている。国譲り神話では、美保ヶ崎にいた事代主命は国譲りを承諾したのち天逆手を打って乗っていた船を青柴垣に変え、その中に隠れてしまう。つまり美保神社はこの神話の舞台である美保関に建てられた神社ということになる。

アクセス バス停「美保神社入口」から徒歩1分

注目ポイント

全国のエビス神社の総本社。 美保造は比翼大社造ともいい、大社造の本殿が2棟横に連なる形式である。向かって左の右殿に事代主命が祀られており、千木は外削ぎ、鰹木は3本である。向かって右の左殿には美穂津姫命を祀り、千木は内削ぎ、鰹木は3本である。 拝殿などの設計には伊藤忠太がかかわっている。 国譲り神話を基にした青柴垣神事、諸手船神事という神事が行われる。

≪部員コメント≫

この神社は島根半島の北東端に位置している。神社の目の前は湾になっていて付近には美保関灯台もある漁師町だ。周辺に恵美須神社という祠がいくつも存在していたが、元は屋敷神であったものだと思われる。この辺りは漁師の家が多いから、やはり各家でも事代主命を祀り豊漁を祈願していたのだろう。 祭神の事代主命は神武天皇の皇后の父親にあたり、出雲の神でありながら天皇家につながる系譜を持っている。それを見ても天皇家から出雲の神としては最重要視されたとすらいえるのかもしれないが、実際に美保神社を参拝すると出雲でもやはり重要な神様であったことは想像に難くなかった。 興味深いのは狛犬で、出雲型で目に青い石を嵌め込んだ狛犬、備前焼の狛犬、木製の狛犬など、素材も形式も異なる狛犬が置かれていたことから、出雲だけでなく各地から出雲に訪れた船乗りたちが自らの安全を祈願して狛犬を奉納したのだろうかなどと想像がはかどる。(ヤマモト)

美保神社

≪部員コメント≫

『風土記』に同名神社の多い点が注目される。私は「アズキ神社は出雲国外の人々が出雲郡で祀っていた神社の総称である」と妄想している。というのも、そもそも『延喜式神名帳』に記載されるアズキ神社の祭神は阿遅須枳高日子根命だけではないし、出雲系ではない神さえ多く含む。ところで滋賀県に阿自岐神社という神社があり、阿自岐という渡来人の伝承が残されているようだ。阿須伎神社の通称は阿式社であり、また阿式姓や安食姓は出雲で見かけたことがある。出雲郡に移り住んだ渡来系の人々の神という可能性もなくはないのでは?(ヤマモト)

​六. 阿須伎神社

読み方 あずきじんじゃ

参拝日 令和4年2月27日

鎮座地 島根県出雲市大社町遥堪1473

祭神 阿遅須枳高日子根命

社格 旧郷社

本殿 大社造(千木:外 鰹木:奇数)

由緒 『出雲国風土記』(733年)以前の創建。

アクセス バス停「阿須伎神社入口」から徒歩5分

注目ポイント

特筆すべきは『出雲国風土記』におけるアズキ神社の数である。出雲郡の約120社のうち39社がアズキ神社という名前である。しかし38社が阿須伎神社に合祀されたようで現在はこの1社のみが残る。

阿須伎神社

​七. 伊保神社

読み方 いぼじんじゃ

参拝日 令和4年3月3日

鎮座地 島根県出雲市斐川町出西544

祭神 阿菩大神

社格 旧村社

本殿 なし(神籬)

由緒

『出雲国風土記』(733年)以前の創建。祭神・阿菩大神については『播磨国風土記』に記述される。大神は大和三山の妻争いを仲介するために出雲から大和へ向かったが、兵庫県の揖保に至ったところで争いが収まったことを聞き出雲に帰ったという。 『出雲国風土記』では加佐伽社、『延喜式』では伊佐賀神社と記載される。

アクセス

山陰自動車道「斐川IC」から車で10分程度。何台か停められるスペースがある。

注目ポイント

本殿が無く、拝殿の裏にはご神木が鎮座している。 両部鳥居を構えるのも珍しい。

≪部員コメント≫

立派な両部鳥居をくぐると木々に囲まれた階段が続く。清々しい気分でのぼった先、山と一体化した境内には拝殿とご神木、そしていくつかの境内社の祠が配置されている。拝殿の前にハンドボールサイズの御神石が置かれていた。原始信仰といえば山、石、木を対象とするのが多いが、この石もそういう雰囲気。ご祭神の阿菩大神は『播磨国風土記』に登場する。『播磨国風土記』にはオオナムチとスクナヒコナによる国造り神話が記載されているなど出雲との関係を思わせ、阿菩大神の話もそのひとつといえよう。(ヤマモト)

伊保神社

​八. 宗像大社中津宮

読み方 むなかたたいしゃなかつぐう

参拝日 令和4年3月12日

鎮座地 福岡県宗像市大島1811

祭神 湍津姫神

社格 旧官幣大社

本殿 流造(千木:内 鰹木:偶数)

由緒

創建年は不明だが、日本書紀によれば、天照大御神と須佐之男命との間で行われた誓約で生まれた宗像三女神が、天照大御神の「歴代の天皇を助け、歴代の天皇より祀られよ」との神勅に基づき宗像の地に降り立ったとされる。三女神が降臨したとされるのは辺津宮近くの「高宮斎場」だが、そこから九州本土の辺津宮に市杵島姫神が、大島に鎮座する中津宮に湍津姫神が、沖ノ島に鎮座する沖津宮に田心姫神がそれぞれ祀られている。  大島の北部に沖津宮遥拝所が設置されており、歴史的に大島は沖ノ島への中継地としての役割が強かったものと見られる。沖津宮の鎮座する沖ノ島は女人禁制のため、沖津宮を仰ぐ女性は大島へ渡って遥拝することとなり、またかつては大島の漁師が沖ノ島に寝泊まりしていたこともあったようである。

アクセス

JR鹿児島本線「東郷駅」から神湊港までバスで25分→神湊港からフェリーで25分

注目ポイント

中津宮の本殿は1566年の創建で、特徴的なのは鰹木である。エンタシスのある円柱3本を束ねたものと、四角柱3本を束ねたものが載った非常に珍しい形状をしている。

また中津宮は日本における七夕伝説発祥の地とされ、中津宮で行われる最大の神事も「七夕祭」である。

島の文化も特徴的である。大島も沖ノ島同様に「神宿る島」であり、かつては忌み言葉があった。たとえば「死」のことを「くろやうせい」と言ったり、「僧」を「まるやうせい」と言ったりしていたようである。島の文化・歴史については、島内の「大島交流館」にて、入館料無料で知ることができる。

宗像中津

≪部員コメント≫

確証はないが、そもそも宗像大社は3つに分かれているということ自体、一般人にとっての認識は薄いのではなかろうか。世界遺産に登録されたこともあってか資料館なども盛りだくさんであり、神社オタクからすればとても一日で辺津宮や中津宮を巡るのはかなりハードである。結果、私も辺津宮参拝の一週間後に中津宮参りということになった。ちなみに宇佐神宮や石清水八幡宮には上宮・下宮や上院・下院があり、片方しか参らないと「片参り」ということになるのだが、宗像大社の場合は辺津宮に第二宮・第三宮とそれぞれ田心姫神・湍津姫神を祀る社殿があり、ここを参っておけば大島へ行けなくても片参りとはならないだろう。  東郷駅まで電車に揺られ、駅からはバスで神湊港まで。フェリーに乗って島を目指す感覚は広島の宮島に似ているが、それもそのはず、両者ともに宗像厳島信仰によるため御祭神が同じである。しかし大島の場合は本土から結構距離がある(体感3倍弱ほど)。  中津宮は大島港のすぐ近くにあり、島に近づくと船上から石段の上の社殿を視認できる。島内は宮島ほどの発展ぶりをしているわけではないが、家屋は鰻の寝床という感じのものが多く、町屋らしい。ここは両者ともに共通している点ではないだろうか。中津宮を参って境内を抜けると、「この先沖津宮遥拝所」の看板。島を横断して、北の海に面した遥拝所を目指すこととなる。(しょうけ)

​九. 鹿島神宮

読み方 かしまじんぐう

参拝日 令和4年1月1日

鎮座地 茨城県鹿嶋市宮中 2306-1

祭神 武甕槌大神

社格 旧官幣大社、常陸国一之宮

本殿 流造(千木:外 鰹木:偶数)

由緒

神武天皇元年(紀元前660年)創建。祭神である武甕槌への神恩に感謝して、神武天皇が即位後にこの地へ勅祭した。その後は東国遠征の拠点として重要視され、朝廷からの勅使が遣わされるようになる。その後も武家を中心に厚い尊崇を受け、現在に至る。

アクセス

東京駅八重洲南口かしま号→「鹿島神宮」からすぐ

JR鹿島線「鹿島神宮駅」より徒歩10分

東関東自動車道「潮来IC」より車で20分 ※カーナビで鹿島神宮と設定すると裏道に迷い込むので注意!参拝者用駐車場へ向かうようにしてください。

注目ポイント

宝物館では国宝の直刀を見ることができる(令和4年現在は改修工事中で見学不可)。また12年に一度、香取神宮の祭神と出会うとされる御船祭が勅使を迎えて開催される。鹿島アントラーズが優勝祈願のために訪れることでも有名である。さらに、コロナ禍においては、遠方に住む人々のために御師による代参祈祷が復活している。独自のクレジットカードを発行していることでも有名。 また、地震を起こす大鯰の頭を抑えるという要石の一部が境内に飛び出していることから、鹿島の神は地震を抑える役目を持っているとも言われている。それに関わってか、東日本大震災の後、陸前高田の諏訪神社から鹿島神宮へ、津波で沖へ流されて泥だらけになった木札が流れついたそうだ。神話の中では敵同士の鹿島と諏訪であるだけに、感動的なエピソードである。

≪部員コメント≫

独自のクレジットカードを発行するなど、既存の神社の形にとらわれない面白い試みも非常に多い。また、鹿島神宮が鎮座する茨城県をはじめとして、関東・東北エリアは非常に地震の多い地域である。武道の神社としてだけではなく、防災の神社としても、もっともっとたくさんの人に親しまれるようになってほしい。(K.R.)

鹿島神宮

≪部員コメント≫

祭神の久那斗神について、同じ神様を祀る島根県出雲市の出雲井神社に伝わる伝承には「勇敢であり地理にも詳しかったため、経津主に付き従って東国平定を助けるようにと大国主に命じられた」とあるようだ。経津主の部下になったはずが、武甕槌を祀る鹿島神宮の摂社祭神となっているのは不思議だが、この神の存在は大国主の国譲りが比較的穏やかに進められたことを示しているのではないだろうか。大国主は優しい。(K.R.)

​十. 息栖神社

読み方 いきすじんじゃ

参拝日 令和3年1月1日

鎮座地 茨城県神栖市息栖2882

祭神 久那斗神、天鳥船神、住吉三神

社格 県社

本殿 神明造(千木:外 鰹木:奇数)

由緒 

応神天皇御代(3世紀前半)創建。香取海(現在の霞ケ浦)に浮かぶ中州に鎮座していた小さい祠だったようだが、大同2年(807年)に常陸国で大津波があったことにより、現在の社地に遷座した。

アクセス

東京駅八重洲南口かしま号→「鹿島セントラルホテル」より徒歩30分

JR総武線(成田廻り)「小見川駅」より徒歩40分

東関東自動車「潮来IC」より車で15分

注目ポイント

鹿島神宮、香取神宮と合わせて東国三社と呼ばれ、東国の人々は伊勢参拝の帰りにこの三社も参拝するのが習わしになっていた。 古くは鹿島神宮の三摂社として手子后神社、大洗磯前神社とともに広く崇敬を集めていた。

息栖神社

​十一. 香取神宮

読み方 かとりじんぐう

​参拝日 令和4年1月1日

鎮座地 千葉県香取市香取1697-1

祭神 経津主大神、下総国一之宮

社格 官幣大社

本殿 流造(千木:外 鰹木:偶数)

由緒

神武天皇18年(紀元前642年)創建。東国平定の拠点として設営された。武家からの崇敬も暑く、また海上自衛隊の練習艦「かとり」の名前の由来にもなった。

アクセス

JR成田線「香取駅」より徒歩30分

東京駅八重洲南口 関鉄グリーンバス 鉾田駅行き→「香取神宮前」下車 徒歩5分

東関東自動車「香取佐原IC」より車で10分

注目ポイント

11月末に行われる大饗祭は、神無月に出雲へ向かった東国の神々を労わるために、経津主とその姫神が御饌を用意するという祭りである。 また千葉県唯一の国宝「海獣葡萄鏡」が納められている。

香取神宮

≪部員コメント≫

神無月、なぜ経津主はお留守番なのだろうか。出雲に行くのは気まずいと思っているのだろうか…。(K.R.)

東国三社参りに行こう!

東国三社参りとは、江戸時代に伊勢神宮へ参拝に行った東国の人々が、帰りがけに鹿島神宮、香取神宮、息栖神社にもお参りしたという風習のこと。三社全て巡ったことを最後の神社でお伝えすると、記念品がいただけます。

  • 参拝の順番のきまりはありません。

  • いただける記念品は各神社によって異なります。

  • 公共交通機関より車がおすすめです!

  • 公共交通機関で向かう方は、東京方面からのバスを利用することをお勧めします。​​​​

≪部員コメント≫

こちらもサークルで参拝。下関市内ではあるものの、壇ノ浦の一帯からは離れているのでやや人は少ないが、「長門国一宮にして本殿の建築が珍しい」という点で寺社研としても是非とも参拝したい神社であり、今回時間ギリギリで参拝できたのは良かったと思う。(しょうけ)

​十二. 住吉神社

読み方 すみよしじんじゃ

参拝日 令和4年5月3日

鎮座地 山口県下関市一の宮住吉一丁目11-1

祭神

住吉三神、応神天皇、神功皇后、武内宿禰、建御名方神

社格 官幣中社、長門国一之宮

本殿

流造だが、九間社で千鳥破風が5つ付いた珍しい様式

由緒

創建は日本書紀によると仲哀天皇9年。神功皇后の三韓征伐後、帰途に「我が荒魂を穴門(長門)の山田邑に祀れ」と託宣があり、その地に祠が建てられたのが起源とされる。式内社でもある名社だが、戦国時代に一時衰微し、その後大内氏、毛利氏の崇敬を受けて社殿の修復が行われた。

アクセス

サンデン交通「一の宮」バス停から徒歩10分程

注目ポイント

最大の見所は応安3年(1370年)に大内弘世によって造営された九間社流造の御本殿で、国宝にも指定されている。

下関住吉

十三. 神田神社

読み方 かんだじんじゃ

 別名 神田明神(かんだみょうじん)

参拝日 令和4年1月7日

鎮座地 東京都千代田区外神田2-16-2

祭神 大己貴命、少彦名命、平将門命

社格 旧府社

本殿 権現造

由緒

出雲から来た人々によって武蔵国豊島郡芝崎村(現在の東京都千代田区大手町)に大国主・少彦名を祀る神社として造られた。将門の乱のあとは、時宗の遊行僧・真教上人によって将門の御霊を治めるために奉祀されるようになる。戦国時代に入ると、関ヶ原の戦いの際に徳川家康が先勝祈願をしに訪れ、その後は江戸総鎮守として知られるようになる。明治時代に入ってからは将門が摂社に遷座されたが、関東大震災や東京大空襲を乗り越えて戦後に本殿の三之宮に復帰。現在では日本の中心地である神田、日本橋、秋葉原、大手丸の内、旧神田市場、豊洲魚市場周辺の氏神として親しまれている。

アクセス

中央線・総武線・東京メトロ「御茶ノ水駅」から徒歩10分

東京メトロ千代田線「新御茶ノ水駅」から徒歩12分

車で行くとかえって不便かも?

注目ポイント

本殿右横には神馬のあかりちゃんが住んでいて、一度逃げ出したことがあるそうだ。祭祀殿には神田明神にまつわる宝物が納められており、大人は300円で入場できる。また本殿左横のホールでは、御朱印の拝受やお守り・将門煎餅などのお土産を購入できる。そのほか、多くの摂社・末社や石碑、文化財が境内に存在する。ラブライブの舞台の一つとなっていることから、ラブライブとのコラボポスターがたくさん貼ってある。

≪部員コメント≫

何度も参拝しているが、タイミングが合わずあかりちゃんにまだ会えていない。一目でいいので会いたい。

神田明神

≪部員コメント≫

 今年はコロナで規模が縮小され上臈参拝も行われなかったが、源平合戦への注目が高まっている年であるということで5月3日の「先帝祭」「下関海峡まつり」に合わせサークルで赤間神宮に参拝した。バスを降りると巨大な水天門が聳え、境内の前は道路と駐車場を挟んで海、北東を望めば関門海峡大橋の塔が見える光景を、メンバーも新鮮に感じていたようである。拝殿・本殿の脇に宝物館や七盛塚や芳一堂があり、源平合戦を偲ばせるものも境内に多く、また天気も晴朗にして青空や本殿裏の森の緑に社殿の丹塗りがよく映える。本殿に近づくごとに階段を登り高度が上がる境内となっているため、安徳天皇に思いを馳せつつ拝殿から振り返ると水天門と海峡が見え、壇ノ浦の戦いの光景を思い浮かべつつまた社殿を見るという行動を幾度か繰り返した。私は今回で赤間神宮へ詣でるのは2回目だったが、他のメンバーはどのように思っただろうか、良い刺激になったならば糸島から遠出してきた甲斐があったと思いつつ、軽くなった財布の中を見つめている今日この頃である。

十四. 赤間神宮

読み方 あかまじんぐう

参拝日 令和4年5月3日

鎮座地 山口県下関市阿弥陀寺町4−1

祭神 安徳天皇

社格 官幣大社

本殿 流造(?)

由緒

貞観元年(859)に「阿弥陀寺」として創建される。文治元年(1185)の壇ノ浦の戦いにて安徳天皇が入水し、その後源頼朝の命により(勅命とも)御影堂が建立されると、仏式で祀られるようになった。明治時代になって神仏分離のため阿弥陀寺が廃されると、神社となり「天皇社」「赤間宮」と名を変え、昭和15年(1940)に官幣大社に昇格し「赤間神宮」となった。

アクセス

JR下関駅からバスで10分、「赤間神宮前」にて下車

注目ポイント

境内の水天門は竜宮城を模した、「竜宮造」と呼ばれる珍しい様式をしている。回廊とともに県の有形文化財となっており、設計は明治神宮や平安神宮の建築にも携わった角南隆や黒木利三郎によるものである。拝殿も鴟尾の付いたもので、まさに天皇の居所という印象を見る者に与える。  赤間神宮の前身である阿弥陀寺は、「耳なし芳一」伝説の地ともされる。境内の芳一堂では芳一の木像が祀られ、隣には平家一門の墓である七盛塚がある。  毎年5月2日の安徳天皇崩御日より3日間にわたって「先帝祭」が行われ、花魁や稚児、警固、官女、禿が境内に設けられた天橋を優雅に渡る「上臈参拝」や、源平の武士が海峡を船でパレードするイベントが行われる。

赤間神宮

十五. 御山神社

読み方 みやまじんじゃ

参拝日 令和4年7月16日

鎮座地 広島県廿日市市宮島町

祭神 宗像三女神

社格 (厳島神社奥宮)

本殿 流造

由緒

仁安3年(1168)頃創建とされる。宮島は古くより信仰の対象であった。宮島最高峰の弥山には多くの巨岩があり、とくに山頂には磐座を思わせる巨石群がそびえ立っていて崇拝・祭祀の対象となっていたことを想像させる。弥山の麓に厳島神社が建立されたのは593年。その後1168年に平清盛によって厳島神社が修造された際に、御山神社が奥の院として建立されたという。神仏分離令が出されるまでは三鬼神を祀る三鬼堂であったが、現在は厳島神社と同じく宗像三女神を祀っている。厳島神社の境外摂社である。

アクセス

宮島ロープウェー「獅子岩駅」から徒歩約30分。

注目ポイント

社殿は3棟で、市杵島姫命を祀る中央殿が本殿とされ、それぞれ左前と右前に田心姫命を祀る左殿と湍津姫命を祀る右殿が鎮座する。ともに丹塗りの一間社流造であるが、中央殿は小高い石の上にあって社殿が少し大きい。厳島神社の大鳥居に代表される両部鳥居が宮島全体に多く見受けられるが、当社の鳥居もその一例である。伊藤博文の信仰篤く、「日本三景の一の真価は頂上の眺めにあり」と弥山頂上からの眺めを称賛したという。なお、厳島神社が世界遺産に指定されているのは有名だが、島全体が国の特別史跡・特別名勝にも指定されている。

≪部員コメント≫

厳島神社に参拝したことがある人の中で御山神社まで行ったことのある人がどれだけいるだろうか。神社自体の由緒としては12世紀までしか遡れないものの、信仰の歴史はおそらく厳島神社建立の593年を遡ることだろう。巨大な岩々、頂上からの霧がかった風景、せっかく宮島に来たのなら一度は弥山を訪れてみてはいかがだろうか。  ところで、無計画に旅行したところ、厳島神社の大鳥居は改修工事中でよく見えなかった。無念。(ヤマモト)

御山神社

≪部員コメント≫

 本来は厳島神社と当社が海を越えて直線的に結ばれていたのだろうが、現在は目の前に広島電鉄の線路が走っており、祭りのときを除き海に出るには回り道しなければならなくなっている。また、本殿の真後ろには山陽本線が通っており、鎮守の杜が分断されている。他にどうにかできなかったんだろうか。  参拝中に小学生の集団が通りすぎて行った。彼らの話しぶりでは、ただの「俺たちの遊び場」と思っている子もいれば「すごい神社らしいよ」と知っている子もいるようだった。そう、君たちの「遊び場」は「すごい神社」なんだよと、……いや、ヨソ者の私より地元の子どもたちの方がよく分かっているのだろうな。(ヤマモト)

​十六. 地御前神社

読み方 じごぜんじんじゃ

参拝日 令和4年7月16日

鎮座地 広島県廿日市市地御前5丁目17

祭神 宗像三女神

社格 村社

本殿 流造

由緒

593年(推古天皇元年)創建

厳島神社の伝承では、厳島神社と同じ593年創建とされている。厳島神社との関係がたいへん深い神社である。社名は「島の御前」たる厳島神社に対して「地の御前」の意味で、本土から厳島を拝するための神社であった。かつては宮島に神職が常駐していなかったので、宮島に渡れないときには代わりに当社で祭事を行ったという。現在でも、鳥居には「厳島外宮社」の扁額がかけられている。

アクセス

広島電鉄「地御前駅」徒歩約10分

注目ポイント

かつては19もの建造物があったというが、今は本殿、客人宮、拝殿、そして胡子神社のみを残す。客人宮には、厳島神社の客神社と同様、誓約によって生まれた五皇子を祀る。 少なくとも江戸時代までは当社のすぐ前まで海だったらしく、船で神社まで来られたようだ。

地御前

​十七. 神魂神社

読み方 かもすじんじゃ

参拝日 令和4年8月18日

鎮座地 島根県松江市大庭町563

祭神 伊弉冉大神、伊弉諾大神

社格 県社

本殿 大社造り(内奇)

由緒

社伝では出雲国造の祖であるアメノホヒが創建したとされるが、記紀や『出雲国風土記』、『延喜式神名帳』には現れない。

出雲国造との関係は深く、26代出雲臣果安が本拠地を大社に遷すまで出雲国造が当社に奉仕していた。その後も国造の代替わりの儀式などの際には当社を訪れている。

現在の本殿は14世紀のものといわれ、現存する最古の大社造である。

アクセス

一畑バス「風土記の丘入口」から徒歩約10分

注目ポイント

現存最古の大社造である本殿は国宝、二間社流造の境内末社「貴布祢稲荷両神社」の社殿は16世紀のものでこちらは重要文化財に指定されている。

天井に九つの雲が描かれている。出雲大社の天井には八雲之図という"七つの雲"が描かれており、本来八つの雲の一つがこの神魂神社に飛んで行ったのだといわれることがある。

伊弉冉命の墓として宮内庁の指定を受けている岩坂陵墓参考地が当社から2kmと離れないところにあるのも興味深い。

当社は意宇六社に数えられる神社の一つである。意宇六社とは、出雲国一宮であり国造の本拠地であった熊野大社、国造の神事にかかわる当社神魂神社、国造の神事に使われた真名井の滝をもつ真名井神社、出雲国総社である六所神社、出雲の御師・佐草氏にまつわる八重垣神社、黄泉比良坂の伝承を持つ揖夜神社の総称。

≪部員コメント≫

Wikipediaには「実際の創建は平安時代中期以降とみられている」とある。以前からこの神社が出雲国造に重要視されていることやイザナミの陵墓参考地やその他多くの古墳がこの地域に偏っていることが気になっており、本当に平安時代の創建だろうかと疑っていた。  今回、初めて現地に出向くにあたってインターネットの色々な記事を見ていたところ、当社が出雲国造の氏神であって内々に祀っていたから文献にも表れないという説があると知った。そして実際に訪れると、やはりそのような新しい神社であるとは思えない。……しかしながら文献に現れない以上は歴史を証明するには足らず、ロマンにあまり深入りするとスピリチュアルとか陰謀論に近づきそうなのでここらで止めておこう。(ヤマモト)

神魂神社

≪部員コメント≫

「イフヤ」って何だろう。思うに「イハヤ(岩屋/石屋)」の変化ではないだろうか。伊賦夜坂(黄泉比良坂)には巨石群があるし、出雲地方でも「岩屋(石屋)古墳」という古墳は数多く見受けられることから死者を祀る墓所を指すものかもしれない。(ヤマモト)

​十八. 揖夜神社 

読み方 いやじんじゃ

参拝日 令和4年8月18日

鎮座地 島根県松江市東出雲町揖屋2229

祭神

伊弉冉命、大巳貴命、少彦名命、事代主命

社格 県社

本殿 大社造(内奇)

由緒

創建は不明だが、『日本書紀』以前と考えられる。『古事記』に伊賦夜(いふや)坂についての記述があり、『日本書紀』には斉明天皇代に言屋(いふや)社が登場した。その後も『出雲国風土記』や『延喜式神名帳』にそれぞれ伊布夜(いふや)社、揖夜(いふや)神社として記述されている。伊賦夜坂は当社から数kmのところに位置する黄泉比良坂の伝承地であり、『古事記』の記述は神社以前の祭祀場であったことを指すものだろう。

後世、武将からの信仰も厚く、大内・尼子・毛利などから寄進を受けたほか、遷宮の際には松江藩主の代参があった。

アクセス JR「揖夜駅」から徒歩約12分

注目ポイント

歴史的仮名遣いの「イフヤ」は「ゆーや」と発音されることからか、「熊野」と書いて当社のことを指すことがあると『雲陽誌』に考察されているようだ。出雲で「熊野」といえば出雲国一宮熊野大社であるが、両社とも出雲国造に関わりがあり意宇六社に数えられるという共通点はある。

作家・司馬遼太郎は当社を訪れ、「いかにも出雲の神社らしく社殿その他がひどく立派で、(中略)ぜんたいに出雲寂びている」と記した。

出雲地方の荒神信仰を語ると長くなるので割愛するが、東出雲(曖昧な方角表現でなく地名である)では境内の看板によると藁蛇を巻いた「大蛇神」を「チイナマイト」と呼ぶそうだ。インターネットには「綱+巻いた」から来ているのでは?とあり、私もその可能性は高いと考える。蛇をあらわす「ツチ」とかも可能性はあるのだろうか。

揖夜神社

​十九. 金刀比羅神社

読み方 ことひらじんじゃ

参拝日 令和4年11月12日

鎮座地 長崎県対馬市厳原町田渕1079

祭神 金刀比羅神

社格 村社

本殿 流造

由緒

インターネットや対馬市のガイドブックに詳しい記事がなく、また境内に案内板などがないため不明。境内の建造物に江戸時代の元号が見られたので、少なくともそれ以前であることは間違いなかろう。 なお、神社が面する山は金比羅山と呼ばれ、山頂に祠があるようなのでそれが当神社の信仰的な起源ではないかと思われる。

アクセス 厳原港ターミナルから徒歩7分

注目ポイント

4月と11月にそれぞれ春と秋の大祭が行われているようである。 境内に無数の岩が露出している。

≪部員コメント≫

 厳原港から厳原の町へ歩いて向かうところに、立亀岩とよばれる巨岩がそびえたっている。これを見たときから対馬では巨石信仰の跡に出会うことができるだろうと期待していた。  そこから少し歩いて、居酒屋などが並ぶ道の中に鳥居が見えたので階段を上ってみると、宗像の沖ノ島祭祀遺跡や宮島の弥山をも思わせる巨岩に囲まれた神社が現れる。これはと確信し、社殿の裏に回ってみると、やはり本殿の真後ろに特に大きな岩がそびえている。はやくも、巨石信仰を見つけたのだ。  まさに大物主命を祀る大神神社ではないが、こういった古代祭祀の場に創建の年を求めるのはもはや不適切であろう。立亀岩の裏手にある住吉神社にも足を運びそこでも巨岩を目にすることになったが、港に近いこの地での信仰が旅の神様である金比羅神社、海運の神様である住吉神社へと形を変えたのは当然の成り行きであった。(ヤマモト)

対馬金毘

≪部員コメント≫

​香椎宮古地では露天祭祀跡のようなものが見られ、古い信仰の形を垣間見ることができた。(KR)

​二十. 香椎宮

読み方 かしいぐう

参拝日 令和4年12月3日

鎮座地 福岡県福岡市東区香椎4丁目16−1

祭神 仲哀天皇、神功皇后

社格 官幣大社

本殿 香椎造

由緒

神功皇后が仲哀天皇のご神霊を祭るために仲哀天皇9年(200)に創建。神功皇后の宮はご神託により神亀元年(724)に竣工したもので、二つを阿笑せて香椎廟と称していた。廟号を持つ点で他の神社と異なり、それゆえに特別な崇敬を集め、国家の大事に際しては奉幣の勅使が遣わされた。現在でも10年に一度勅使の参向がある。

アクセス JR鹿児島本線「香椎駅」より徒歩10分

注目ポイント

本殿は香椎造と呼ばれ、重要文化財に指定されている現在のものは享和元年(1801)に筑前藩主黒田長順によって再建された。

香椎宮

​二一. 筥崎宮

読み方 はこざきぐう

参拝日 令和4年12月3日

鎮座地 福岡県東区箱崎1丁目22−1

祭神 応神天皇、神功皇后、玉依姫

社格 官幣大社

本殿 流造

由緒

創建は延長元年(923)と考えられている。醍醐天皇が「敵国降伏」の宸筆を下賜し、筑前大分宮(穂波宮)より遷座した。名だたる武将たちから厄除け・必勝のご利益があるとして崇敬を集めた。

アクセス

福岡市営地下鉄「筥崎宮前駅」より徒歩1分

注目ポイント

本殿・拝殿、鳥居、石灯籠などは国指定重要文化財になっている。また秋の実りに感謝をする放生会(ほうじょうや)には100万人以上が訪れる。

≪部員コメント≫

境内は七五三や神前式の参拝者でにぎわっていた。今年は久々に放生会が開催されたということもあり、徐々にコロナ禍から抜け出して日常が戻ってきていることを感じた。(KR)

香椎宮

≪部員コメント≫

用事があって2日間だけ岡山に行くことになったので、時間の無いなかでせめてここだけはと思い参拝した。当社は「吉備の中山」といわれる山の北西辺に位置するのだが、この山の北東辺には備前国一宮の吉備津彦神社があり、両神社は1日で回れる距離にある。「吉備の中山」上には当社の主祭神である大吉備津彦命の陵墓に指定された古墳があり、ここが備前と備中の境界として両方から命を祀る神社に囲まれる形となっている。 桃太郎の物語の歴史を追うと温羅伝説がその起源とは言い難いようだが、吉備の地が醸成した伝承として興味深いものがあり、吉備各地に点在する伝承地をめぐってみるのも楽しそうだ。(ヤマモト)

​二二. 吉備津神社

読み方 きびつじんじゃ

参拝日 令和4年11月28日

鎮座地 岡山県岡山市北区吉備津931

祭神 大吉備津彦命

社格 官幣中社

本殿 吉備津造(比翼入母屋造)(外偶)

由緒

言い伝えによると、大吉備津彦命の五代目の孫である加夜臣奈留命が祖神として祀ったのが始まりとされる。 吉備国が備前・備中・備後に分かれた際には各国に勧請されて、それぞれ備前国一宮・吉備津彦神社(岡山市)、備後国一宮・吉備津神社(福山市)となっている(当社は備中国一宮)。

アクセス 「吉備津駅」から徒歩9分

注目ポイント

本殿は他の神社に類例を見ない吉備津造で、国宝に指定されている。 当社には大吉備津彦命による温羅討伐伝説が伝わっており、この伝説と桃太郎の物語との関係が注目されている。この伝承地として境内に矢置石、御竈殿があり、矢立の神事、鳴釜神事がおこなわれている。 鳴釜神事については、江戸時代の読本『雨月物語』に登場することで知られる。

香椎宮

​二三. 草部吉見神社

読み方 くさかべよしみじんじゃ

参拝日 令和4年11月4日

鎮座地 熊本県阿蘇郡高森町草部2175

祭神 日子八井

社格 郷社

本殿 流造(外奇)

由緒

孝霊天皇3年(BC288)に創建。現在の社殿が建っている所には池が存在したが、祭神の日子八井が干して社殿を建てたとされている。 翌年神武天皇の孫で祭神の甥である健磐龍命(阿蘇大神)が下向してきたため、日子八井は娘を后とし、九州鎮護に力を尽くした。 天正年間には豊後の大友氏によって社領が略奪され荒廃したが、寛政五年(1793)に社家が復活した。

アクセス

九州自動車道・熊本ICより車で2時間程度

注目ポイント

社地は阿蘇南外輪山の舌状台地の中央に位置し、社殿が鳥居より下にある「下り宮」と呼ばれる珍しい配置。また社殿の東側には祭神・日子八井の御陵(陵墓参考地)が存在する。7月31日の例大祭では岩戸系の神楽が奉納される。

≪部員コメント≫

車でないと到底アクセスできない場所にあるが、車であっても隘路を進まなければならないので気を付けて! 祭神・日子八井の母は近畿出身のイスケヨリヒメとされるようだが、由緒には「高千穂から草部に入り」とあることから、日向で生まれたということが推測できる。従って祭神の母はイスケヨリヒメではなく、神武天皇が日向にいたときに妻にしたアイラツヒメなのではないだろうか。(KR)

香椎宮

≪部員コメント≫

この神社の付近に弥生時代に製作された弧帯文石を現在でもご神体としている楯築神社(楯築遺跡)が所在するのでそこを目指して自転車を漕いでいたところ、あまりに奇特な光景が目に飛び込んできた。田園のなかに円形の小さい土地があり、鎮守の杜の木々の間から巨石たちが積み上げられるように置かれているのが見える。 もとは「稲倉」といったのが「岩倉」に変化したというが、むしろそれぞれの信仰が習合したのが当社ではなかろうか。楯築遺跡の巨石信仰に直接結びつけたくなるようなロマンある神社だが、落ち着いて考えたい。当地の巨石信仰文化のもとに、弥生時代の水田開発の際に掘り出された「農耕の邪魔になる岩たち」の存在があり、それが当神社の巨石群ではないかと考えてみる。つまり、自分たちが農耕を始める前からこの地に鎮座していた岩を地神(土地の神)として神聖視する人々を想定できないかということだ。岡山には「地神塔」が多くあり、地神を信仰する基底文化が育まれていたことは間違いない。(ヤマモト)

​二四. 岩倉神社

読み方 いわくらじんじゃ

参拝日 令和4年11月28日

鎮座地 岡山県倉敷市日畑203

祭神 大稲船命

社格 村社

本殿 流造

由緒

公式サイトによると「吉備津宮の五社殿を創建した時、この地に岩倉神社として社殿が創建されたと伝わって」いるという。 社名は「稲倉」が変化して「岩倉」になったらしい。

アクセス 「岡山駅」から車で30分

注目ポイント

とにかく巨石が境内にゴロゴロしている。

香椎宮

​二五. 天岩戸神社

読み方 あまのいわとじんじゃ

参拝日 令和4年11月5日

鎮座地 宮崎県西臼杵郡高千穂町岩戸1073番地1

祭神 大日孁/天照皇大神

社格 村社

本殿

西本宮:なし(ご神体が洞窟)

​東本宮:神明造(内偶)

由緒

創建年代は不明。西本宮では古くから天照が隠れたとされる岩戸を祀っている。東本宮では岩戸から出た天照が住んだとされる住居を祀っている。弘仁3年(812)に三田井惟基が神託によって荒廃した社殿を再興した。皇室の崇敬も厚く、たびたびのご参拝がある。

アクセス

九州中央自動車道・山都中島西ICより車で1時間程度。

注目ポイント

岩戸神楽が有名。また社地周辺で発見された考古資料などを保管している。西本宮と東本宮に分かれている。西本宮拝殿すぐそばの河原を上流へ500mほど歩いていくと、仰慕窟という大きな洞窟の中に天安河原宮が存在する。岩戸隠れの際、神々はこの天安河原で相談をしあったという。

≪部員コメント≫

30分おきに神職さんがご案内を開催されており、拝殿の裏から天岩戸とされる洞窟を拝むことができる。その際、高千穂での信仰形態や霧島連山の高千穂峰との関係、神武天皇についてなど、興味深い解説をしてくださる。神社好きなら一度は訪れるべき神社。(KR)

香椎宮

≪部員コメント≫

式内社とはいえ大きな神社ではなく、寂れた雰囲気を与えるところかもしれないと思いながら階段を上がったが、丁寧に整備されてポジティブなイメージを受けた。個人的に狛犬が好きなので注目して見ているが、この地方の狛犬はポーズや顔面に出雲型に似た特徴を持ちながら、尾の形などは独特で地域性が現れるようだ。境内末社として大元神社があり、石見地方の民俗行事「大元神」や「大元神楽」との関係があるのだろう。(ヤマモト)

​二六. 櫛代賀姫神社

読み方 くししろかひめじんじゃ

参拝日 令和4年12月30日

鎮座地 島根県益田市久城町963

祭神 櫛代賀姫命、応神天皇

社格 旧県社

本殿 流造

由緒

天平5年(733)に創建された後、2度の移転を経て現在地に建立された。中世はじめに浜八幡宮が勧請され、武運の神としても信仰を集めた。

アクセス

石見交通「スクモ塚」バス停から徒歩11分

注目ポイント

三大神事として、角力神事、針拾い神事、獅子舞神事が伝えられている。 関連遺跡として付近には櫛代族首長を葬ったといわれるスクモ塚古墳があり、調査の結果2022年10月に島根県最大の古墳(前方後円墳)と発表された。

香椎宮

​二七. 物部神社

読み方 物部神社

参拝日 令和4年12月30日

鎮座地 島根県大田市川合町川合1545

祭神 宇摩志麻遅命

社格 国幣小社

本殿 春日造り(外奇)

由緒

神武東遷を助けた宇摩志麻遅命は石見の地で没した。継体天皇8年(514)に社殿創建の勅命が下ったのが当社の起源である。境内社「一瓶社」や御田植祭は古来の三瓶山信仰を今に伝えている。

アクセス

石見交通「物部神社前」バス停から徒歩1分

注目ポイント

本殿は春日造としては日本最大の社殿である。社殿背後に宇摩志麻遅命の陵と伝わる「御神陵」が所在する。

≪部員コメント≫

物部神社は旧石見国所在としては唯一の官国幣社であり、また一宮でもある。石見国は出雲国に隣接しているが、その一宮が"一部に大社造の特徴を持つ"春日造というのは面白い。ところで、境内にパーソロン号(シンボリルドルフ父)の銅像があり、これは馬主の和田氏が当社の氏子であったことに由来する。島根県ではこの和田氏との関係から「七冠馬」という日本酒も造られているらしい。蛇足。(ヤマモト)

香椎宮

≪部員コメント≫

 年が明けて2023年。熊本の民としては、初詣は一宮である阿蘇神社でも、熊本市内の健軍神社・藤崎宮などでもよかったが、今年は甲佐神社へ行くことにした。実際阿蘇神社よりかは熊本市内からのアクセスもよく(天気も良かったので阿蘇までの道のりは渋滞も予見された)、何より甲佐神社は肥後国の二宮ではあるものの普段はひっそりしているので、元日の賑わいを見物に、かつて参拝した際に社務所が開いていなくて頂けなかった御朱印を貰いにと、足を運んだ。

 甲佐神社に参拝して毎回思うのは、肥後国二宮であるものの町の中心部からは少し奥まったところにあって、道も狭く離合しにくそうだというのと、しかしそれでも二宮、鳥居も社殿も巨大だなァということである。

 しかし九州大学に入学し、福岡で過ごすようになってからは、熊本と福岡間の国際性ならぬ「県際性(もちろん造語です)」を感じざるを得ない。

 甲佐神社の由緒は既述の通りであるが、甲佐神社と福岡の繋がりは二重に存在している。

 一つは「神功皇后伝説の繋がり」。伊都キャンパスのある福岡県糸島市には染井神社があるが、ここは仲哀天皇亡きあと三韓征伐を代行した神功皇后が、出陣の前に自らの甲冑を染めた地である。自分の通う大学の近くで染められた甲冑が、伝説上は一度神功皇后とともに朝鮮半島に行き、そして日本に帰ってきて(自分の)地元の神社に納められたのだと思うと、何か感慨深いものがある。神功皇后ゆかりの地名・神社というのは福岡県を中心に広く分布してはいるが、それでも熊本市から南東に行った少し辺鄙なところであっても、神功皇后伝説というネットワークの中に昔から組み入れられているのだと思うと面白く思えてくる。

 そして二つ目には「元寇の繋がり」がある。『蒙古襲来絵詞』には福岡の海沿いの地名が多く登場するが、そうした情報が、他県のそれも結構な内陸にある神社に納められていたという事実や、当宮を元寇を戦った竹崎季長が訪れたというだけで、遠く離れた博多湾の潮の匂いが境内に微かに薫っているような気持ちさえしてくる。由緒という情報が、博多湾の浜に並ぶ防塁に植わった松原の情景と、緑川の河畔にあって山々に囲まれた境内の情景を結びつけるのである。筆者による誇張表現の目立つところはあるが、それでも甲佐神社にはそういった面白さがあるように感じる。​(しょうけ)

​二八. 甲佐神社

読み方 こうさじんじゃ

参拝日 令和5年1月1日

鎮座地 熊本県上益城郡甲佐町上揚876

祭神 八井耳玉命

社格 郷社

本殿 流造(外奇)

由緒

孝元天皇26年創建。阿蘇神社の主祭神・健磐龍命は自らの御子である八井耳玉命を南方の守護神とするため、鏑矢を放って矢が落ちた所に社を作った。そのため当初は名を「鏑崎宮」と称したが、三韓征伐のあと凱旋した神功皇后が甲冑を当宮に奉納したため、「甲佐宮」と改められた。 その後鎌倉時代になって、肥後国の御家人であった竹崎季長によって国宝『蒙古襲来絵詞』が奉納された。竹崎季長は元軍との戦いにおいて手柄を立てたが、恩賞からもれてしまった。そこに「甲佐宮へ参れ」とお告げがあり、実際に参拝すると「鎌倉へ行って直訴せよ」と更にお告げがあった。これにしたがったところ幕府から肥後国海東の地を賜り、元軍が去ったのちに『蒙古襲来絵詞』を作成して甲佐神社に奉納されたと伝わる。 旧社格は郷社であるものの、肥後国の二宮となっている。

アクセス

九州自動車道「松橋IC」より車で20分程度

注目ポイント

『蒙古襲来絵詞』は現在宮内庁の所蔵となっているため、絵巻を模写した絵馬が境内に飾られている。

香椎宮

​二九. 出雲手斧神社

読み方 いずもておのじんじゃ

参拝日 令和4年12月31日

鎮座地 島根県出雲市大社町杵築北 奉納山

祭神 手置帆負命、尺度彦狭知命

社格 無格社

本殿 切妻造妻入り(外奇)

由緒

出雲大社造営に携わった神を祀る神社であり、出雲大社西方の奉納山の山頂に鎮座している。『出雲国風土記』や『延喜式神名帳』に名の見える神社ではないため歴史は比較的短いとは思われるが、奉納山は鎌倉~室町時代には神聖視されていたと見られ、この頃には信仰の種は芽吹いていた可能性がある。もとは小祠を祀っていたのが昭和時代に土砂災害で押し流され、その後現在地に社殿が建立された。

アクセス

一畑バス「奉納山入口」バス停から徒歩7分ほど

注目ポイント

奉納山に出雲阿国塔が建てられているほか、出雲阿国に関する伝承地が付近に数多く残っている。

≪部員コメント≫

歩いて数分で登れる低い山の上に神社は所在しており、山頂には他に展望台がある。大晦日ということで、出雲市を眺望するのも悪くないと思って奉納山に向かった。私の他にも先客があり、山陰の冬にしては天気のいい午後を楽しんでいた。(ヤマモト)

香椎宮

≪部員コメント≫

この日は出雲市大社町の小さな神社を巡っていた。1時間強のサイクリングの中で「荒神社」と名の付く神社には8社も出会った(赤塚荒神社、榎荒神社、大鳥居荒神社、北荒木総荒神社、越戸荒神社、西原荒神社、八大荒神社、南本通荒神社)。「荒神さん」といって藁を編んで作った龍が町内を練り歩く民俗行事があり、練り歩いた後にこの龍を各地区の荒神社に設置された石などに巻き付けることで完了するということで、地域の行事とも密接にかかわる神社である。(ヤマモト)

​三十. 赤塚荒神社

読み方 あかつかこうじんじゃ

参拝日 令和4年12月31日

鎮座地 島根県出雲市大社町杵築西1894

祭神 素戔鳴尊

社格 無格社

本殿 切妻造妻入り(外奇)

由緒

境内社の御崎神社のほうが歴史が古く、13世紀に赤塚地区の開発のため移り住んだ人たちによって建立されたという。赤塚荒神社は棟札によると元禄8年(1695)創建であるという。明治6年に御崎神社が廃社となったが数年後に復旧し、明治41年(1908)赤塚荒神社の境内に移転した。

アクセス

道の駅「大社ご縁広場」から徒歩14分

注目ポイント

赤塚神楽(出雲市無形文化財)

香椎宮

​三一. 駅前稲荷神社

読み方 えきまえいなりじんじゃ

参拝日 令和4年12月30日

鎮座地 島根県出雲市大社町北荒木169

祭神 最上稲荷大明神

社格 その他

本殿 切妻造妻入り(外偶)

由緒

明治45年(1912)の国鉄大社線開通に伴い、駅前商店街の繫栄を願って昭和5年(1930)に最上稲荷を遷座勧進することとなった。大社線は平成2年(1990)に廃止されたものの、駅前稲荷神社は現在まで保存されている。

アクセス

道の駅「大社ご縁広場」から徒歩6分

注目ポイント

「駅前」が指す駅とは廃止された大社駅(国鉄大社線)のことであり、旧大社駅舎は国重要文化財に指定されている(2022年12月現在は改修工事中で見学不可)。

≪部員コメント≫

先日、岡山へ行ったときには時間が無くて最上稲荷を訪れることが叶わなかったが、駅前稲荷と関係があると知っては行かないわけにはいかない。リベンジしたい。(ヤマモト)

香椎宮

≪部員コメント≫

京都府与謝野町にある倭文神社(祭神同じ)には、大国主の正妻である須勢理姫と当社の祭神がもともと夫婦であったという伝承が残っているらしい。祭神は出雲討伐を行った武甕槌の部下であるだけに、不思議なつながりである。(KR)

​三二. 静神社

読み方 しずじんじゃ

参拝日 令和5年1月1日

鎮座地 茨城県那珂市静2

祭神 建葉槌、(配祀)手力雄

社格 県社

本殿 神明造(内偶)

由緒

創建は大同元年(806)。鹿島神宮につぐ常陸二宮として崇敬され、江戸時代には水戸藩第二代藩主・徳川光圀によって社殿が造営された。

アクセス

常磐道「水戸北IC」から車で30分程度

注目ポイント

水戸第三代藩主徳川綱條公によって1705年に奉納された三十六歌仙の日本画が存在する。祭神は鹿島神宮祭神・武甕槌を助け星神の甕星を討伐したとされており、鹿島神宮拝殿の目の前に鎮座する「高房社」にも当社と同じ神様が祀られている。機織神の性格を持つ当社の存在は、古代に倭文部が当地周辺に住んでいたことを表す。

香椎宮

​三三. 大井神社

読み方 おおいじんじゃ

参拝日 令和5年1月1日

鎮座地 水戸市飯富町3475

祭神 建借馬命、(配祀)木花開耶姫

社格 村社

本殿 流造

由緒

崇神天皇代創建。第十代崇神天皇の御代に、皇子の豊木入日子を奉じて、現在の茨城県潮来市周辺を通って建借馬が当地にたどり着き、天照を祭祀したのが始まり。その後初代那珂国造となった建借馬も奈良時代に祭祀されるようになった。

アクセス

常磐道「水戸北IC」から10分程度

注目ポイント

当社の近くには県内屈指の規模を誇る愛宕山古墳が存在し、祭神の墳墓ではないかと考えられている。

≪部員コメント≫

同県潮来市に存在する大生(おおう)神社は、鹿島神宮の元宮と考えられている。名前の発音が似ているだけでなく、当社の伝承にも潮来の地が登場する。鹿島神宮や大生神社との関係性が気になるところ。(KR)

香椎宮

≪部員コメント≫

地元の神社最強!(ヤマモト)

三四. 出雲大社

読み方 いずもたいしゃ

参拝日 令和5年1月1日

鎮座地 島根県出雲市大社町杵築東195

祭神 大国主大神

社格 官幣大社

本殿 大社造り(外奇)

由緒

国譲りののち大国主の住処として御殿が造立されたのをはじめとする。ほかに垂仁天皇代、斉明天皇代などにも出雲大社創建とも思われる記述がある。平安時代の社殿は高さ約48mあったとされ、延享元年(1744)に造営された現在の本殿は高さ24mと規模が小さくなっているものの神社の本殿としては八坂神社、吉備津神社などに次ぐ巨大なものである。鎌倉時代以降は神仏習合の影響で鰐淵寺と関係を深めたり境内に仏教建築を持つようになったりし、また中世出雲神話の影響で祭神をスサノオに改めていた。その後、寛文の造営(1667)の際に仏教色を排し、このときに祭神を大国主に復している。明治時代に入ると、明治4年(1871)に官幣大社に列せられ、翌明治5年(1872)には出雲国造の千家家と北島家がそれぞれ出雲大社教と出雲教(のもととなる組織)を結成、明治17年(1884)には両家とも華族(男爵)となった。遷宮はおよそ60年ごとにおこなわれており、前回は平成25年(2013)の平成の大遷宮である。

アクセス

駐車場有

一畑バス「正門前」バス停から徒歩1分

一畑電車「出雲大社前」駅から徒歩5分

注目ポイント

主な文化財として、本殿(国宝)、秋野鹿蒔絵手箱(国宝)、その他国重要文化財など多数。特徴的な祭事として、身逃神事、神迎祭、神在祭、古伝新嘗祭など。

香椎宮

​三五. 星神社

読み方 ほしじんじゃ

参拝日 令和5年1月2日

鎮座地 島根県安来市清水町21

祭神 富能加比売命

社格 無格社

本殿 切妻造妻入り(外奇)

由緒

詳しいことは不明だが、境内に「伽藍神○」と書かれた碑が立っており、隣接する安来清水寺との関係を感じさせる。同じく境内の石碑を見るに、清水地区の産土社であり、4社ほどを合祀していると見られる。その中に「妙見神」があり、妙見信仰が神仏分離の際に星神社として名を変えたのかもしれない。

アクセス 安来清水寺駐車場から徒歩1分

≪部員コメント≫

神紋は丸に「星」の字というもので、あまり見ないものだった。そもそも星神社を出雲で見ることは少ない気がする。とはいえ那富乃夜神社(松江市)の鎮座地「星上山」、富能加神社(出雲市)の旧社地「星神山」などから、なんらかの星信仰は想定できる。そして当社の祭神である富能加比売命も、「星神山」に鎮座した富能加神社をみるに「星神社」にふさわしい星神であったのではなかろうか。(ヤマモト)

香椎宮

≪部員コメント≫

参拝したのが正月であったためか、境内の神輿を納める倉が開帳しており倉前にはダイコン・カブ・木炭が吊るされていた。付近にあった「歳徳神」の祠には鯛の開き・米を包んだ紙・木炭が吊るされており、この地域の民俗行事のようだ。正月の神社にはこのような楽しみもある。​(ヤマモト)

​三六. 塩津神社

読み方 しおつじんじゃ

参拝日 令和5年1月2日

鎮座地 島根県安来市久白町415‐1

祭神 塩土翁

社格 無格社

本殿 切妻造妻入り(外奇)

由緒

背後の塩津山には弥生~古墳時代の墳丘墓・古墳があり、神社の境内にも塩津神社古墳という石棺式石室を有する古墳が所在する。このことから、この時代にはすでに信仰の対象となる山であり、その裾に神社が作られるようになったことは容易に想像できる。

アクセス

JR山陰本線「荒島駅」から徒歩8分

注目ポイント

塩津山墳墓群、塩津神社古墳

香椎宮

​三七. 御井神社

読み方 みいじんじゃ

参拝日 令和5年1月2日

鎮座地 島根県出雲市斐川町直江2518

祭神 木俣神

社格 郷社

本殿 切妻造妻入り(外奇)

由緒

八上姫が木俣神を生んだときの産湯である生井(いくい)・福井(さくい)・綱長井(つながい)の伝承を残す。『古事記』や『出雲国風土記』などに記述のある古社である。神話の記述から安産の神として信仰を集めてきた。日本最古の井戸であり、宮中にも御分霊が祀られている。

アクセス JR山陰「出雲市駅」から車で15分

注目ポイント

当社の付近に、生井・福井・綱長井の伝承地が現在でもそれぞれ神域として管理されている。

≪部員コメント≫

木俣神は大国主の初子であり、八上姫は因幡の白兎に深くかかわる女神である。そんな神様の伝承地が現在にいたるまで大切にされてきたことに感動があった。生井・福井・綱長井の3つの井戸があること、神紋が亀甲に「三」の字であったことから、社名の「みい」は「御井」というだけでなく「三井」の意味もあるのだと思われた。(ヤマモト)

香椎宮

≪部員コメント≫

少彦名について、同じ茨城県の笠間市福原に所在する常陸国出雲大社の由緒に「常世国(常陸国)の少彦名は…」とあったことを思い出した。常陸国風土記総記にも「古の人、常世の国と云へるは、蓋し疑はくはこの地(=常陸国)ならむか[昔の人が常世国と言ったのは、思うに常陸国のことではないだろうか]」とある。大国主・少彦名の降臨伝承はこの「常世=常陸」という記述からだろうか。(KR)

​三八. 酒列磯前神社

読み方 さかつらいそさきじんじゃ

参拝日 令和5年1月5日

鎮座地 茨城県ひたちなか市磯崎町4607-2

祭神 少彦名命、(配祀)大名持命

社格 国幣中社

本殿 流造(外奇)

由緒

斉衡3年(856)、大洗海岸に祭神二柱が降臨し、「日本の国を造り終えてから東の海に去ったが、いま再び民衆を救うために帰ってきた」と神託したことによって、当地に当社が、那珂川の対岸には大洗磯前神社が創建された。このことから二社は兄弟社として対で信仰されている。延喜式では名神大社に列せられた。江戸時代に入ると水戸藩主から崇敬を寄せられ、二代徳川光圀の代には境内の大規模拡張や遷座が行われた。

アクセス

北関東自動車道「ひたちなかIC」から車で10分程度

ひたちなか海浜鉄道湊線「磯崎駅」から徒歩10分程度

注目ポイント

参道にある「幸運の亀」は宝くじ高額当選者によって奉納されたもの。金運のご利益があると評判だとか。

また樹叢には椿などがトンネル状に並び、茨城県指定天然記念物となっている。

かつては関東で最大の大きさを誇った石灯籠が存在したが、東日本大震災の際に倒壊してしまった。

香椎宮

​三九. 八野神社

読み方 やのじんじゃ

参拝日 令和5年1月3日

鎮座地 島根県出雲市矢野町725

祭神 八野若日女命、大年神

社格 郷社

本殿 切妻造妻入り(外奇)

由緒

オオクニヌシが八野若日女命を娶ろうとして家をプレゼントしたことが矢野の地名由来譚として『出雲国風土記』に記載されている。『出雲国風土記』に矢野社、『延喜式神名帳』に八野神社として記載されている。境内の案内板によれば、古来の祭神と社地を現代まで変えないで信仰が続いているという。

アクセス

一畑バス「八野神社入口」バス停から徒歩1分程度

注目ポイント

社殿は南向きだが参道を西向きに作るので、二の鳥居の前で90度折れることになる。 当社周辺一帯には弥生集落遺跡(矢野遺跡)が所在しており、表採された特殊土器片から吉備との関係があった可能性がみえる。

≪部員コメント≫

記紀に登場せず『出雲国風土記』に登場する八野若日女命の存在はきわめて重要であるといえる。というのも、『出雲国風土記』ではスサノオとオオクニヌシに直接的な系譜的関係がみられないにもかかわらず、スサノオの娘である八野若日女命とオオクニヌシが婚姻関係を結ぶという話をわざわざ採用しているからである。(ヤマモト)

香椎宮

≪部員コメント≫

国譲りののち大国主の住処として御殿が造立されたのをはじめとする。ほかに垂仁天皇代、斉明天皇代などにも出雲大社創建とも思われる記述がある。平安時代の社殿は高さ約48mあったとされ、延享元年(1744)に造営された現在の本殿は高さ24mと規模が小さくなっているものの神社の本殿としては八坂神社、吉備津神社などに次ぐ巨大なものである。鎌倉時代以降は神仏習合の影響で鰐淵寺と関係を深めたり境内に仏教建築を持つようになったりし、また中世出雲神話の影響で祭神をスサノオに改めていた。その後、寛文の造営(1667)の際に仏教色を排し、このときに祭神を大国主に復している。明治時代に入ると、明治4年(1871)に官幣大社に列せられ、翌明治5年(1872)には出雲国造の千家家と北島家がそれぞれ出雲大社教と出雲教(のもととなる組織)を結成、明治17年(1884)には両家とも華族(男爵)となった。遷宮はおよそ60年ごとにおこなわれており、前回は平成25年(2013)の平成の大遷宮である。(ヤマモト)

​四十. 大山神社

読み方 おおやまじんじゃ

参拝日 令和5年1月3日

鎮座地 島根県出雲市小山町110

祭神 大山津見命

社格 村社

本殿 切妻造妻入り(外奇)

由緒

『出雲国風土記』には「大山社」、『延喜式神名帳』には「大山神社」として記載されている。以前は小山町東北端にある小高い丘陵地に祀られていたが、斐伊川の氾濫・洪水により押し流されて現在の地に遷ったという言い伝えがある。

アクセス

一畑バス「四絡コミュニティセンター前」バス停から徒歩約2分

注目ポイント

境内に「土貢神」と彫った石が祀られており、少なくとも出雲では類例を知らないものである。

香椎宮

​四一. 比那神社

読み方 ひなじんじゃ

参拝日 令和5年1月3日

鎮座地 島根県出雲市姫原町1-394

祭神 比那鳥命

社格 村社

本殿 切妻造妻入り(外奇)

由緒

比那鳥命が国譲りののちに当地に宮造りをしたのが起源であると伝える。『出雲国風土記』には「比奈社」、『延喜式神名帳』には「比那神社」として記載されている。 鎌倉時代以来、八幡信仰が盛んになった影響で祭祀が途絶え、江戸時代初期に祠が編まれるまでは藪の中に石を祀るだけの状態であったという。

アクセス

出雲市役所(駐車場)より徒歩約7分

注目ポイント

比那鳥命に関連して、『日本書紀』に崇神天皇が「比那鳥命が天から持参した神宝が出雲大神の宮(熊野大社または出雲大社)に収蔵されているので見たい」と仰せになり、これへの対応をめぐって出雲振根と飯入根という兄弟の争いが起きるという話が記載されている。争った地は「止屋の渕伝承地」として出雲市内に残っている。

≪部員コメント≫

家に挟まれて、細い参道を通って境内に向かう。正月3日ということもあり、家族連れの初詣に出会った。社殿はかなり新しそうで、高校のころ一度来たことがあったが、それより後に建て替わったのではないかと思うくらいである。社名の「比那」とは田舎のことだろうか。そんなの、島根の全神社を代表しちゃうじゃん……。(ヤマモト)

香椎宮

≪部員コメント≫

出雲振根と飯入根の伝承について。崇神天皇が「タケヒナテルが天から持参したという出雲の神宝を見たい!」と仰ったところ、出雲臣の祖先である出雲振根は筑紫に赴いていて留守だったので、弟の飯入根が独断で神宝を献上した。帰ってきた振根は弟の行動に激怒し、「止屋の渕で水浴びをしよう」と飯入根を誘い出して騙し討ちにしてしまった。その後、振根は天皇が派遣した吉備津彦と武渟川別によって誅殺された。(ヤマモト)

​四二. 阿須利神社

読み方 あすりじんじゃ

参拝日 令和5年1月3日

鎮座地 島根県出雲市大津町3668

祭神

豊玉比古神、豊玉比女神、玉依比女神、大己貴神

社格 郷社

本殿 流造

由緒

『出雲国風土記』には「阿須理社」、『延喜式神名帳』には「阿須(湏)利神社」として記載されている。出雲振根が弟・飯入根を殺した時の血(あせ)が池に流れ込んだから「あせり」とか、八岐大蛇がこの池に入って焦ったから「あせり」とか言われている。 江戸時代に三谷神社境内に遷座していた(このことから三谷神社も「阿須利神社」の論社として扱われる)が、明治時代には現在の地に移転した。

アクセス

駐車場有(正月のみか)

一畑電車「大津町」駅から徒歩約3分

注目ポイント

八幡宮を合祀している。流造であるのはそのためか。

香椎宮

​四三. 富神社

読み方 とびじんじゃ

参拝日 令和5年1月3日

鎮座地 島根県出雲市斐川町富村596

祭神 八束水臣津野命、天之冬衣命

社格 村社

本殿 大社造変態(外奇)

由緒

『出雲国風土記』記載「出雲社」の論社のひとつとされる。霊亀元年(715)、出雲国造の三男がこの地に分家し遠祖神を配祀、祭神はこの里人が氏神と称して富大明神といい、富村となった。近世以降も出雲国造と関係のある神社である。

アクセス

リムジンバス出雲空港線「富」バス停から徒歩約3分

注目ポイント

祭神について。八束水臣津野命は『出雲国風土記』で国引きをおこなった神であり、またいくつかの地名起源神話に登場する。『風土記』では「八雲立つ出雲~」はスサノオではなく八束水臣津野命が言ったことになっている。八束水臣津野命は出雲市・長浜神社に祀られており、長浜神社もまた「出雲社」の論社のひとつである。 天之冬衣命はオオクニヌシの父神であるが、境内の説明板によると島根県内で祭神として祀っているのは当社だけであるという。ただし、系譜をもとに日御碕神社宮司家の祖神である天之葺根と同一視されることもある。 配祀神に足名椎命、手名椎命(ともに稲田姫命の両親)、稲田姫命(スサノオの妃)、国忍富命(オオクニヌシの孫)、布忍富鳥鳴海命(オオクニヌシの子孫)がいる。国忍富命は県内では当社にのみ祀られる。布忍富鳥鳴海命は系譜のみの記載で、正体のよく分からない神である。

≪部員コメント≫

お気に入りの神社のひとつで、出雲に来るとだいたい一度は行くようにしている神社である。お気に入りの理由は3点あり、1点目は祭神が特殊であるということである。2点目は境内にある龍神祠で、龍神信仰はまさに出雲らしいというのと、祠に2匹の蛇が彫られているのが何となく好きだ。3点目はその立地にある。小学校の裏手、高架下付近、線路付近と、何となく「身近な異界」という感じがする。(ヤマモト)

香椎宮

≪部員コメント≫

出雲市には旧海軍の大社基地跡がある。あるといっても、ろくに遺構の残っておらず道路の付き方から当時の滑走路の幅を感じさせるくらいになってしまっているが。 その大社基地跡に沿って自転車を走らせていると加毛利神社の鎮座する社叢が見えてくる。見えて……、通りすぎた。細い生活道路を抜けなければ境内に辿り着かないことに気づかず、2度も通りすぎてしまった。 鳥居が無いことはたしかに異様ではあるが、他例は無いでもない(出雲大社の周りだと命主社や出雲井社、上宮など)。しかし、大社造となると話が変わってくる。たとえ出雲と言っても、大社造はそう多くないので、新しく見つけられてテンションが上がった。(ヤマモト)

​四四. 加毛利神社

読み方 かもりじんじゃ

参拝日 令和5年1月3日

鎮座地 島根県出雲市斐川町神氷神守1779

祭神 天津日高彦火火出見

社格 村社

本殿 大社造(外奇)

由緒

豊玉毘売命が鵜草葺不合命を出産するとき大量のカニが集まってきた。この時そばに仕える神がこのカニを掃いて命をお守りしたことから「蟹守(カニモリ)」の名を与えられた。「カニモリ」が変化して「カモリ」になったという。 このカニモリの子孫が日向の宮崎神宮から彦火火出見命、豊玉毘売命(配祀)、鵜草葺不合命(配祀)の御分霊を「宮崎大明神」として当地・船子山(現在は消滅)に祀ったのが起源とされる。 『出雲国風土記』に「加毛利社」、『延喜式神名帳』に「加毛利神社」として記載されている。

アクセス

境内に車を停められる。

 JR「直江」駅から徒歩約21分

注目ポイント

鳥居が無い。これは、当社の祭神は天津神であるため国津神を祀る出雲大社より大きな鳥居を作りたいが、それができないならいっそのこと建てない、ということらしい。これに関連して、氏子の家も門を作らない。

香椎宮

​四五. 波知神社

読み方 はちじんじゃ

参拝日 令和5年1月3日

鎮座地 島根県出雲市斐川町三絡559

祭神 天津彦々火瓊々杵

社格 村社

本殿 大社造変態(外奇)

由緒

社伝では、日向国の宮地「伊波禰」より祭神を勧請したのが起源とされる。「伊」の字が省略されるようになって『出雲国風土記』では「波禰社」、さらに転じて『延喜式神名帳』では「波知神社」と記載されて今に至る。なお、当社周辺の地名は「羽根」である。

アクセス

荒神谷博物館(駐車場)より徒歩約12分

≪部員コメント≫

斐川平野を大まかに東部と西部に分けると、西部に式内社が多い一方で東部には少なく当社と伊甚神社(松江市宍道)のみである。ただし式内社が少ないからといって古い神社が少ないのではなく、『風土記』所載の神社は西部より多いくらいである。東南部では当社(瓊々杵尊)、波迦神社(ヤマトタケルなど)、神代神社(ウヤツベ)、御碕神社(スサノオ)、佐伎多神社(タケミナカタ)が、東北部では都牟自神社(アマツキチカミタカヒコ)、都牟自神社(コモマクラシツヌチ)、原鹿神社(キビツヒコなど)がある。斐川平野東部には天津神の神社が多く、またなぜか出雲であまり見られないタケミナカタ信仰が多く見られる。(ヤマモト)

香椎宮

≪部員コメント≫

境内案内板には「大鳥造」と書いてあったが、大社造系の切妻造くらいにしたほうが妥当に思われた。たしかに大鳥造っぽいけど。 ところで当社が所在するのは「神庭」というところであり、この不思議な地名の土地に荒神谷遺跡が発見された。荒神谷遺跡が諏訪神社に囲まれているという話を読んだことがあるが、どうもいずれも中世以降の創建らしくより古い時代には当社や波知神社があったと考えるべきだろう。(ヤマモト)

​四六. 神代神社

読み方 かむしろじんじゃ

参拝日 令和5年1月3日

鎮座地 島根県出雲市斐川町神庭485

祭神 宇夜都弁命

社格 郷社

本殿 大鳥造(内奇)

由緒

『出雲国風土記』に「神代社」と記載されており、また「宇夜里」の地名由来として当社の祭神・宇夜都弁命がこの地に降り立ったことを記している。『延喜式神名帳』所載の「神代神社」の比定社のひとつであるが、論社(出雲市・万九千社)もある。高瀬城主によって勧請された八幡宮が延宝年間(17世紀後半)に合祭され、境内案内板によると当社は通称「宇夜八幡宮」とも呼ばれているという。

アクセス

荒神谷遺跡(南駐車場)より徒歩約15分※境内前に車は停められる

注目ポイント

境内に磐座があり、巨岩信仰が根付いている。

香椎宮

​四七. 出雲井社

読み方 いずもいのやしろ

参拝日 令和5年1月5日

鎮座地 島根県出雲市大社町修理免1329

祭神 岐神

社格 その他

本殿 切妻造妻入り(外奇)

由緒

いまいち情報が得られないが、境内裏に磐座があるので、神社以前の信仰が続いていると想像できる。出雲大社境外摂社。『出雲神社探訪』では『延喜式神名帳』の「大穴持神社」に比定しているが、一般的には大穴持神社は廃絶したとされるので不明。

アクセス

みせん広場(駐車場)から徒歩約5分

注目ポイント

社殿裏に磐座があり古来の信仰の場であることが伺えるが、その岩に明らかに人工的な傷がつけられている。思うに寛文のご造営(出雲大社)の際に切り出そうとしたものではないか。現に命主社の磐座はこの時の石材として切り出され、それによって青銅器祭祀遺跡(弥生時代)が発見されている。 境内には桜が何本も生えているので、時期が良いとたいへん綺麗。

≪部員コメント≫

かつて出雲大社の東からの参道として使われていた道(社家通り)沿いに鎮座する。だからといって出雲大社から社家通りを通って車で来るのはやめたほうがいい。細いので。 ところで、当社からすぐ東に「美人岩」という岩があり、「美人な岩」ではなく「美人に見とれて落っこちてきた岩」という伝承がある。なんかおもしろい。(ヤマモト)

香椎宮

≪部員コメント≫

私のもっとも好きな神社だ。なんといっても静かな感じが良い。正式な名前は神魂伊能知奴志神社だが、「命主社」というのが一般的な呼び方となっている。 (ヤマモト)

​四八. 命主社

読み方 いのちぬしのやしろ

参拝日 令和5年1月5日

鎮座地 島根県出雲市大社町杵築東185

祭神 神皇産霊神

社格 その他

本殿 大社造変態(外奇)

由緒

『出雲国風土記』の「御魂社」、『延喜式神名帳』の「同社神魂伊能知奴志神社」に比定される。弥生時代の祭祀遺跡が境内で発見されており、それ以来の信仰の場であることは確実である。出雲大社の境外摂社であり、当社の東にある真名井の清水が神事に使われる。

アクセス

駐車場有 出雲大社から徒歩約3分

注目ポイント

真名井遺跡(出土品は国重要文化財)

ムクの巨木

真名井の清水(島根の名水100選)

香椎宮

​四九. 三歳社

読み方 みとせのやしろ

参拝日 令和5年1月5日

鎮座地 島根県出雲市大社町杵築東

祭神 事代主神、高比売命、御年神

社格 その他

本殿 切妻造妻入り(外奇)

由緒

『出雲国風土記』の「同社」(企豆伎社)、『延喜式神名帳』の「同社神大穴持御子神社」に比定される。出雲大社摂社(たぶん境外)。

アクセス 出雲大社から徒歩約10分

注目ポイント​ 福迎神事(1月3日)

≪部員コメント≫

出雲大社のなかに走る車道を北に進むとボーイスカウト活動センターがある。それをさらに行ったところに三歳社が所在している。私がボーイスカウトに所属していたころ、自由時間の遊び場のひとつがこの神社だった。社殿後ろの土が赤土混じりで泥団子を作るのに適していたのである。およそ10年ぶりに行ったが、思い出がよみがえってきた。あの頃は神社に見向きもしていなかった、もっと小さい祠みたいなイメージだったが案外大きかった。ボーイスカウトのみんな元気かなー。(ヤマモト)

香椎宮

≪部員コメント≫

常陸国風土記や古事記における長幡部の記録を基にすると、神社のある常陸国久慈郡の長幡部は、長幡(絁)の生産が盛んに行われていた美濃国から移住してきたと推測できる。

神社周辺には、幡山古墳群・幡バッケ横穴墓群などの遺跡、そして幡町(はたちょう)・幡山(はたやま)・機初(はたそめ)といった地名がある。これらの遺跡や地名は、この神社と同様に長幡部と関連していると考えられている。

また、この神社周辺で製作されていたと考えられている長幡(絁)は、現在の茨城県西部を中心に生産されている結城紬の起源であると考えられている。そのため、現在は地元の住民だけでなく、結城紬の関係者などからも信仰を集めているようだ。(鴨下)

​五十. 長幡部神社

読み方 ながはたべじんじゃ

参拝日 令和4年12月31日

鎮座地 茨城県常陸太田市幡町539番地

祭神 綺日女命、多弖命

社格 郷社

本殿 流造(外奇)

由緒

創建年代は不明。しかし、常陸国風土記に記録されていることから、風土記が作成された8世紀前半(722,723年頃?)よりも前に創建されたと推測できる。

常陸国風土記の記録から、長幡(ながはた)や絁(あしぎぬ)と呼ばれた絹織物を製作していた長幡部という技術者集団が、彼らの先駆者を祀ったことが長幡部神社の始まりであると考えられる。

中世以降は度々社号が変更されたが、江戸時代の延享年間(1744~1748)に古老によって旧社号(長幡部神社)に戻った。また江戸時代には水戸藩、特に第9代藩主徳川斉昭公の崇敬が厚く、弓矢刀剣の奉納があったと伝わっている。

アクセス

常磐道日立南太田ICから車で12分程度

注目ポイント

長幡部神社郷土資料館があり、神輿や纏(まとい)、そして奉納された機織り機が保管されている。

香椎宮

​五一. 要石大神

読み方 かなめいしおおかみ

参拝日 令和5年3月3日

鎮座地 島根県出雲市国富町

祭神 八束水臣豆奴命

社格 その他

本殿 なし

由緒

八束水臣豆奴命が日本海の4ヶ所から島を引いてきて出雲国の土地を大きくした(国引き)。このとき地面が揺り動かされないようにと石をさし立てた。このことからこの地を「国留」といったのが、現在の国富(くにどみ)町の由来とされる。 仁寿元年(851年)の大地震以降、地震鎮護の神として祀られるようになったという(ただしこの年に地震があったという記録は無い)。 1717年に書かれた『雲陽誌』にはすでに記述があり、そこではタケミカヅチを祭神とする。

アクセス 一畑電車旅伏駅から徒歩約11分

注目ポイント

出雲市のある旧家の敷地内に鎮座する。 境内に三宝荒神の五角柱あり。五角柱といえば社日碑だが関係はあるか。 神域らしき空間には6つの巨石と多数の小さな丸石がある。要石はそのサイズが記録されているので6つの総称というよりこの中の一つを指すのだろう。小さな石のほうは、この辺りでは家の新築の時に地震除けのお守りとして持ち帰るという。

≪部員コメント≫

要石は日本海側に少ないという研究がある。特定の地震に際して、後世の人に(文字以外で)記録を残そうとするときに要石という方法がとられ、その石と口伝がともに残ったものだけが要石として今に伝わるわけだが、日本海側では地震と自身の間隔が長いせいで地震の伝承が伝わりにくいらしい。 国富の要石は邸宅の敷地内にあることからも、元々は太平洋側の要石とは異なりこの家のいわゆる屋敷神であったのだろう。そして鹿島の要石信仰が入ってきたときに屋敷神が要石としてその性格を変えたことは、江戸時代の『雲陽誌』に書かれる祭神がタケミカヅチであったことからも推測される。その後、出雲の地により馴染むように国引き神話と絡めた伝承が生まれてきたのだろうか。(ヤマモト)

香椎宮

≪部員コメント≫

江戸時代に記録された伝承に「此の窟の辺にいたる者必ず死すという、故に今に黄泉の穴と号す」というのがある。有名な猪目洞窟でも夢に見ないかぎり死なないというのに、ここは近づくだけで危険なのだ。夜見神社は山の中にあり階段など備え付けられているとはいえ2021年の大雨災害の影響がまだ残っており、気をつけないとたしかに死にそう。 「黄泉の穴入口」という縁起でもない看板が立てられているので見落とさなければ迷うことはないはず。しかし私は見落とした。近くをウロウロしながら「ここに神社がありそう」と思って近づいても何もないという場所があり、後で調べると夜見神社と関係の深かった布勢神社の旧社地だった。(ヤマモト)

​五二. 夜見神社

読み方 よみじんじゃ

参拝日 令和5年3月3日

鎮座地 島根県出雲市奥宇賀町

祭神 綾門姫命

社格 無格社

本殿 切妻造妻入りの祠

由緒

『出雲国風土記』に、綾門姫命がオオクニヌシの求婚を承諾せず黄泉の穴に逃げて隠れたという話が記載される(一度は求婚を断るというのが当時の文化だったとされる)。綾門姫命が隠れた黄泉の穴をオオクニヌシがうかがい見たことから当地を「宇賀」というようになった、という地名由来譚である。伝承ではオオクニヌシと綾門姫命は夫婦であり、仲睦まじくなかったので綾門姫命が逃げたともいわれる。 布勢神社(『風土記』布世社、『延喜式』布勢神社、江戸時代には籠守明神と呼ばれた)と関係が深く、当社の祭りを夜見神社でおこなっていたという。なお明治時代に布勢神社を含む3社(いずれも風土記所載)が合併する形で奥宇賀神社が創建されている。

アクセス

一畑電車雲州平田駅から車で約11分(さらに徒歩数分)

注目ポイント

黄泉の穴がある。出雲においては松江市東出雲町の伊賦夜坂、出雲市猪目町の猪目洞窟が黄泉比良坂とされるほか、イザナミの陵墓として宮内庁が管理する松江市八雲町の岩坂陵墓参考地、イザナミの陵墓との伝承がある安来市伯太町の比婆山久米神社など、黄泉の国に関わる伝承地が多い。奥宇賀の黄泉の穴はイザナミに関係しない黄泉の穴として特徴的である。

香椎宮

​五三. 韓竈神社

読み方 からかまじんじゃ

参拝日 令和5年3月3日

鎮座地 島根県出雲市唐川町408

祭神 素盞嗚命

社格 村社

本殿 流造

由緒

『出雲国風土記』に「韓銍社」、『延喜式神名帳』に「韓竈神社」として記載される古社である。韓竈神社の「韓」は朝鮮半島、「竈」は釜とか溶鉱炉のことで、ご祭神の素盞嗚命が新羅から植林法、鉄器文化などを伝えたことに関連するとされる。実際に当社の鎮座する北山山系は産銅地帯といわれ、自然銅や野タタラ跡、金堀り地区の地名などが見られる。

アクセス

韓竈神社駐車場から徒歩約20分

注目ポイント

社殿は巨岩の上にあり、石段をのぼる必要がある。また社殿の目の前には岩の隙間を通らなければならない箇所があり、リュックを背負っていると通れないほど狭い。 鳥居横には素盞嗚命が新羅から乗ってきた岩船といわれる岩がある。 韓竈神社駐車場から1.5kmほど離れた集落には拝殿があり、当社の祭りなどはここでおこなわれる。とくにここの唐川神楽は夜通し舞われるもので、出雲市の無形民俗文化財に指定されている。この集落には当社境外末社の斐代神社が鎮座する。こちらは中古には祭祀は絶えていたものの、『出雲国風土記』の「斐提社」、『延喜式神名帳』の「斐代神社」に比定されている。

≪部員コメント≫

パワースポットとして昔から知られている神社だが、最近のパワースポットブームどころか8世紀には神聖な場として認識されていたというのだから文字通り格が違う。長い石段をのぼりながら韓竈神社の大きな岩が見えてくると思わず声が漏れた。巨岩信仰が盛んな出雲で、その中でも韓竈神社が代表的に扱われるのも納得であった。極度の肥満体形で岩の隙間を抜けられない、足腰が悪くて長い石段は厳しいという人でなければ、出雲に来たら是非とも参拝してほしい神社である。(ヤマモト)

香椎宮

≪部員コメント≫

阿陀加夜怒志多岐吉比売命(アダカヤヌシタキキヒメ)はたいへん興味深い神様である。キノマタノカミとの関わりを思わせる伝承については米子市阿陀萱神社の項で改めて書かせていただくが、その前に神名に「アダカヤ」と「タキ」というふたつの地名を含んでいる時点で面白い。「アダカヤ」は松江市東出雲町出雲郷(あだかえ)のことで、当地には阿太加夜神社(『出雲国風土記』「阿太加夜社」)が鎮座し同じ神を祀っている。『出雲国風土記』「加夜社」の論社は当社と出雲市多伎町の加夜堂があり、出雲市多伎町には他にも阿陀加夜怒志多岐吉比売命を祀る神社が複数ある。松江市東出雲町と出雲市多伎町という離れた2点を実際につないでいたのは何だったのだろうか。(ヤマモト)

​五四. 市森神社

読み方 いちもりじんじゃ

参拝日 令和5年3月5日

鎮座地 島根県出雲市稗原町2571

祭神

(主祭神)阿陀加夜怒志多岐吉比売命

(配祀神)天照大御神、高皇産霊神

肥長比売命→旧富能加大明神の主祭神

天御中主神、香之背男神→旧富能加大明神の配祀神

社格 無格社

本殿 切妻造妻入り(内奇)

由緒

市森大明神、富能加大明神という二社が並んで祀られていたのを昭和27年(1952年)に一社に合殿としたのが当社である。①市森大明神について。『出雲国風土記』所載の「加夜社」の論社のひとつである。社伝によれば、もと加夜床の地に鎮座していたのが中古市森に遷座し、市場の守神として信仰されてきたという。②富能加大明神について。『出雲国風土記』の「富乃加社」、『延喜式神名帳』の「富能加神社」の論社のひとつである。社伝によれば、山寄鐘築境に鎮座していたが現在地付近の石畑に星神が降ったため合祀し星宮神社とよばれ信仰されてきたという。

アクセス 出雲市駅から車で約12分

注目ポイント

一の鳥居付近に小社があり、向かって右から日吉社、社日碑、秋葉神社、武内神社。ここの拝殿の向かい側にオオヤマツミを祀る石碑がある。 参道左側には市森神社敬神婦人会による「四季のお花畑」があり、人々の生活における当社の在り方の一面が見える。 境内社として貴船社、天王社、若宮神社、若宮社があるほか、境内のため池付近にミヅハノメを祀る石碑がある。

香椎宮

​五五. 智伊神社

読み方 ちいじんじゃ

参拝日 令和5年3月5日

鎮座地 島根県出雲市知井宮町1245

祭神

(主祭神)高皇産霊神

(配祀神)埴安姫神

社格 郷社

本殿 大社造(外奇)

由緒

『出雲国風土記』に「知乃社」、『延喜式神名帳』に「智伊神社」として記載される。出雲大社と深い関係があったが、16世紀に社伝一切を焼失。宝暦5年(1758年)に現在地に移転され、平成4年(1992年)に本殿などを改築している。

アクセス JR西出雲駅から徒歩約10分

注目ポイント

境内社は多く、とくに境内末社・比布智神社は『出雲国風土記』「又比布知社」、『延喜式神名帳』「同社(引用者註──比布智神社)坐神魂子角魂神社」に比定される古社であり、明治末年に当社境内に遷座された。

≪部員コメント≫

切妻造妻入り、鰹木3本、高床、2間×2間、左右非対称の向拝という紛うことなき大社造の本殿である。たとい天神のトップでも出雲にあってはオオクニヌシと同じ形で祀られるのだ。この神社の付近には、比布智神社という神社があり、これもまた大社造である。この地域の人々は大社造を採用することで、出雲大社との関係を強調しているように見える。(ヤマモト)

香椎宮

≪部員コメント≫

同じ島根県内でも、出雲国では大社造とその省略形が全体によく見られ、隠岐国では隠岐造系の社殿が多い。対して、石見国に位置する当社では一宮物部神社と同じ春日造が採用されている。いずれの建築も大社造の影響を受けた神社建築であることは実際に見れば納得であるが、それぞれの地域で独自に発展しているのが見られておもしろい。(ヤマモト)

​五六. 山辺八代姫命神社

読み方 やまべやしろひめのみことじんじゃ

参拝日 令和5年3月6日

鎮座地 島根県大田市久利町久利1499

祭神 (主祭神)天照大神、(配祀神)八幡宮

社格 村社

本殿 春日造り(内奇)

由緒

延暦2年(783年)に大和国笹幡神社から勧請された。笹幡神社から勧請されたということから、当社ではご祭神の山辺八代姫命を天照大神としている。 建仁2年(1202年)には京都石清水八幡宮から合殿八幡宮が勧請された。久利氏、毛利氏からの崇敬が篤く、また延命長寿の神として信仰を集めた。

アクセス 大田市駅から車で約10分

注目ポイント

境内粟島神社はスクナヒコナを祀り、一願成就の宮とよばれる。 大田市大代町に同名の式内論社があり、創建の社伝(笹幡神社より勧請)も同様である。

香椎宮

​五七. 志都岩屋神社

読み方 しづのいわやじんじゃ

参拝日 令和5年3月6日

鎮座地 島根県邑智郡邑南町岩屋1714

祭神

(主祭神)大己貴命、少彦名命

(配祀神)応神天皇、神功皇后、玉依姫命

社格 県社

本殿 流造

由緒

『万葉集』に大己貴命と少彦名命が「志都乃石室(しづのいわや)」に仮宮を営んだという伝承をもとにした歌が掲載されている。この「志都乃石室」の伝承地は複数あるが、本居宣長は当地を比定している。背後の弥山が山岳信仰の場として信仰を集めた。

アクセス

町営バス「志都神社口」より徒歩約15分

注目ポイント

本殿の真後ろにある鏡岩をはじめ、当社の周囲や弥山の山中に多くの巨岩がある。

≪部員コメント≫

「志都乃石室」の伝承地として島根県内には当地を含めて2ヶ所あり、もう1ヶ所は大田市静間町の静之窟である。こちらの洞窟内には式内社の静間神社が鎮座していたが現在は近くに遷座している。 伝承地としては(志都岩屋神社の巨岩は石窟という感じじゃないので)静之窟のほうが納得感のある気はするが、それ以上に山岳信仰の雰囲気を今なお感じさせることが良かった。(ヤマモト)

香椎宮

≪部員コメント≫

「アダカヤ」は松江市東出雲町の地名であるが、ご祭神の名前からつけられたものだろうか。米子市は伯耆国のなかでも出雲国に隣接する立地であり、社殿建築や狛犬などに出雲との共通点が見いだせた。とはいえ社殿や灯籠などの装飾は出雲のものより豊かである一方、この地域の他の神社には共通するもので、単に出雲と同一の文化であったというわけではない。 参拝のおり、偶然境内を掃除している氏子の方に出会った。幸運なことに、拝殿の鍵を開けて天井の龍之図を見せていただいたり、数年前に屋根を銅板に葺き替えた際に新しい記録が見つかった話を聞かせていただいたりした。その時にいただいたパンフレットには多岐喜姫が木俣神を名乗ったという伝承が載っており、やはり阿陀加夜奴志多岐喜比売命とキノマタノカミを同一視していることが分かる。ヤカミヒメの子として因幡的なイメージがあるキノマタノカミと、神名に「アダカヤ」、「タキ」という出雲国の地名をもつ阿陀加夜奴志多岐喜比売命を同一視すること(さらに祀られている当地は伯耆国)はこれらの地域に何らかの交流があったことを示すのだろうか。考えすぎか。(ヤマモト)

​五八. 阿陀萱神社

読み方 あだかやじんじゃ

参拝日 令和5年3月7日

鎮座地 鳥取県米子市橋本623

祭神 阿陀加夜奴志喜比売命

社格 村社

本殿 切妻造妻入り(内奇)

由緒

オオクニヌシは因幡の白兎を助けた縁でヤカミヒメと結ばれ、出雲の直江で阿陀加夜奴志多岐喜比売命が生まれる(出雲市御井神社)。ヤカミヒメが因幡国に里帰りする途中、阿陀加夜奴志多岐喜比売命は榎の俣に指を挟んだためこの地にとどまり鎮守の神として祭祀されるようになったのが始まりとされる。創建は不明ながら、天平6年(735年)に安芸国厳島神社より宗像大社祭神を勧請したという記録がありそれ以前の創建であることはうかがわれる。戦国時代には当社の鎮座する宝石山に七尾城が築かれ、城主行松氏のほか尼子氏、吉川氏からも崇敬された。

アクセス 米子南ICから車で約9分

注目ポイント

拝殿の天井にある「龍之図」は1837年に制作されたもので、絵画としては2点目となる米子市文化財に指定されている。 当社の鎮座する宝石山には神代の昔に宝石が天降ったという伝承があり、境内の「産石」(祭神:木俣神)ほか3つの大石がそれだとされている。

香椎宮

​五九. 大神山神社

読み方 おおがみやまじんじゃ

参拝日 令和5年3月7日

鎮座地

本社:鳥取県米子市尾高1025

奥宮:鳥取県西伯郡大山町大山

祭神 本社:大穴牟遅神 奥宮:大己貴命

社格 国幣小社

本殿

本社:大社造変態(?)(千木外削ぎ、鰹木3本)

奥宮:権現造(千木・鰹木なし)

由緒

大神山神社奥宮は、修験者が山岳信仰の対象であった大山中腹に簡単な遥拝所を設けたのがそもそもの始まりとされる。『延喜式神名帳』に「大神山神社」として記載されており、伯耆国二宮として信仰を集めてきた古社である。 冬季の奥宮では積雪が著しく祭祀が困難であったので平安時代にふもとに冬宮を作り、夏は奥宮(夏宮)、冬は冬宮にて祭祀がおこなわれた。また、神仏習合思想のもとで大己貴命に地蔵菩薩を祀り「大智明権現」の称号を当てて神仏混淆の神社として奉仕されるようになった。明治時代に神仏分離令により冬宮を本社とし、奥宮は大己貴命を祀る大神山神社奥宮と地蔵菩薩を祀る大山寺とに分離した。

アクセス 本社・奥宮とも駐車場あり。

注目ポイント

文化財として大神山神社奥宮2棟(重要文化財)など。 祭りとして神水汲取神事など。

≪部員コメント≫

大神山神社は中国地方最高峰の大山をご神体とする神社で、伯耆国に鎮座しているものの大山が「出雲富士」と呼ばれることからか出雲国神仏霊場の第9番霊場となっている(第10番は大山寺)。 さすがに3月だし、多少の雪は残っているかもしれないが参拝できるだろうと思い行ってみたところ、想像以上の積雪であった。平地にある本社、奥宮駐車場からすぐのところにある奥宮遥拝所、そして700mの参道(ここがすごい雪で、先人たちの足跡を踏みながら何とか登り切った)を越えた先の奥宮、どこで諦めるかという勝負。むしろ「せっかく来たから…」という未練を断ち切れるかどうかという試練でさえあった。断ち切れなかったが。(ヤマモト)

香椎宮

≪部員コメント≫

明治神宮のような印象を受けたが、やはり設計者が同一人物だった。南朝の人物を祀る神社は明治時代に多く造営され、そこには南朝から明治につながるという正統性を示すため神社の設計にもこだわったのかもしれない。 広い境内・立派な社殿に対して、整備は必ずしも行き届いているという感じではなかった。国家神道の時代に国を挙げて南朝正統を示すために造られた当社を国家神道の廃れた現代に継承するのは大変なことなのだろう。 もともと地元の人々に崇敬された名和長年卿、この地味だけれど確かに継承されてきた信仰は大規模な神社に示されなくとも、屋敷跡の氏殿神社をはじめ多くの伝承地が伝わることを見れば明らかだ。(ヤマモト)

​六十. 名和神社

読み方 なわじんじゃ

参拝日 令和5年3月7日

鎮座地 鳥取県西伯郡大山町名和556

祭神 名和長年卿

社格 別格官幣社

本殿 流造

由緒

南朝の忠臣であった名和長年の館跡とされるところに、長年を慕う地元の人によって承応・明暦の頃に小祠を祀ったのがはじめとされる(現在もこの地に氏殿神社が鎮座する)。その後鳥取藩主によって東方の山王権現の社地に社殿が造営された。明治に入ると氏殿神社として県社に列せられたが、旧藩主の池田慶徳・息子の輝知らの働きかけにより別格官幣社に列せられることとなった。建武中興十五社の一社である。

アクセス

JR名和駅から徒歩5分。駐車場あり。

注目ポイント

現在の社殿は明治神宮を造営した角南隆氏によって手がけられた。 当社境内地が名和公の米倉であったと伝えられているほか、周辺には伝承地が数多く存在する。後醍醐天皇お腰掛の岩、三人五輪(首塚)、的石、屋敷跡、長鋼寺(菩提所)、一斗六升など。

香椎宮
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